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荒川区って荒川に面してないんだなあと気づいたときに読む記事

どうもこんにちは!ちゃんぬーです。

私、休みの度に都内近郊で釣りに興じておりまして。Googleマップを眺めては「次はどこに行こうかな〜」と思案する日々を過ごしております。

先日も「次は隅田川でうなぎでも狙おうかな〜」と釣り場を物色していたところ、ある事実に気が付きました。

荒川区は荒川に面していない

荒川区、荒川に面してない!

てっきり、荒川区という名前から荒川に面しているものだと思いこんでおりましたが、隅田川としか面していないのです。これでは荒川区ではなく隅田川区という名前の方がいいのでは?そもそも、荒川と面してないのになんで荒川区なの?

と疑問に思った私は、その真実を探し求めて荒川の奥地に足を踏み入れたのであった。

結論:現在の隅田川は昔は荒川と呼ばれていた

結論から申し上げると、現在の隅田川は昔は荒川と呼ばれていた。そして、現在荒川と呼ばれている荒川下流は「荒川放水路」と呼ばれていた。

さらに遡ると、荒川は隅田川と荒川に分岐しておらず、現在の隅田川の流路を通って海に注いでいた。

これだけをお伝えしても、よくわからないと思うので、荒川と隅田川の歴史を紐解いていきましょう。

荒川の歴史を紐解いていこう

とりあえずは、出来事を時系列に並べてみましょう。そうえうれば自ずと謎は解けます。

江戸時代の荒川

まずは、遡ること江戸時代。

1629年に“利根川東遷事業”という瀬替えの工事が行われたそうな。このときの工事で荒川下流は、現在の隅田川の流路を通ることになったとのこと。

確かに、江戸後期の地図には現在の荒川がなく、隅田川のみとなっている。そしてこの隅田川が荒川と呼ばれていた。

大正〜昭和の荒川

荒川放水路が1913年〜1930年までの17年かけて掘られた。

これは岩淵水門から中川と河口付近で合流するところまで掘られたのが、荒川放水路。これが現在の荒川下流の原型になっているんですね。

ちなみに荒川はその名前の通り、氾濫が起きやすい川で、台風が来るたびに江戸の下町を浸水していたとのこと。人的被害はあまりなかったが、家屋や農作物の被害が甚大だったそうです。

それに加えて明治も後半に差し掛かった1910年に関東大水害が発生し、荒川、利根川、多摩川などが一気に氾濫し多数の死者や家屋の倒壊などの被害を引き起こしたということがきっかけになっている模様。

17年に及ぶ難工事は、重機もなくほぼ手作業で、災害や第一次世界大戦などの影響もあり、多大なコストと30名近くの犠牲者を出したそうです。しかし、この荒川放水路の完成後は東京が洪水に見舞われることがなくなったとのこと。先人は偉大ですね。

荒川区が発足したのが、1932年。南千住町、三河島町、尾久町、日暮里町が統合、東京市へ荒川区として編入されたそうです。当然、この段階では荒川区は荒川(現在の隅田川)と面しており、名実ともに荒川区だったというわけ。

そして、1965年に河川法改正の影響で「荒川放水路」は正式に「荒川」の本流とされ、かつて荒川の本流とされていた流路のうち岩淵水門より下流は「隅田川」という呼称に変更となった。

こういうわけで、荒川区は現在荒川に面していないという不思議な状況が成立したというわけです。

現在の荒川

荒川下流は都内一級河川として、地域住民に親しまれています。

河川敷を走るランナーや自転車乗り。犬を散歩させる人。サッカーや野球に汗を流すスポーツ少年。そして、私のような週末アングラー。

流路としては、岩渕水門から東に走り、その後葛飾区周辺で南へと下る河川は、その大部分が海水と淡水が入り交じる汽水域となっています。

なので、岩渕水門から千住のあたりまではブラックバスやハクレン、ナマズ、ニゴイなどの淡水魚が主に連れ、江戸川区や江東区などの海近いポイントではシーバス、クロダイ、ハゼなどの海水や汽水を好む魚がよく釣れます。

河川を掘った人々の努力や苦労に思いを馳せながら、これからも荒川、隅田川でいろいろなお魚を釣っていきたいなと思った次第です。

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